― 代表交代について・代表が代わった日 ―

 コミックマーケット準備会は、ボランティアによって運営されている任意団体だ。
 同人誌と、それを取り巻く文化を愛する参加者たちが思い思いの表現を持ち寄る豊穣な混沌の『場』、三日間で数十万人を動員する年二回の巨大な催事を、準備会に所属する三千人を越えるボランティアスタッフが支えている。とはいえ、スタッフが頑張っただけでこれだけの規模を誇るコミックマーケットが無事に開催し続けられるはずもない。
 コミックマーケットの成り立ちや運営を一言で語る言葉がある。「コミックマーケットにお客様はいない」だ。サークルも来場者も企業出展もスタッフも、全員参加者であり、この『場』を自ら維持する意思を持つ仲間であるとする考え方こそ、コミケットの成長と現在の規模を生んだのだと、筆者は思っている。
 「全員が参加者」という理念を掲げ、コミックマーケットのあり方を定めた男が、第二代コミックマーケット代表、米澤嘉博(ペンネームとしては「沢」を使っていた。以後米沢とする)である。
通称は「米やん」。熊本生まれのヘビースモーカーで極度のニンジン嫌い。マンガと酒と古書、そしてジョージア・エメラルド・マウンテンをこよなく愛する人物だった。知識と記憶力とアイデアに優れ、仕事もマンガ評論家、編集者、ライターと多才。賞を幾つも取っており、日本マンガ学会の理事も務めていた。任意団体である準備会ではできない契約、経理部分を担当する有限会社コミケットの初代社長でもあり、変人揃いのスタッフにも慕われていた。家庭においては、代表補佐も務めていた英子夫人、通称「ベルさん」との間に一男二女に恵まれている。
 初代代表の原田央男氏らと共にコミックマーケットの創設に関わり、一貫してコミケの中心であり続けた米沢が準備会にとってどういう存在であったのかは、「コミックマーケットは米沢嘉博の私物である」と冗談交じりに言い習わされていた、と書いておけば伝わるであろうか。事実、コミックマーケットとそれを運営する準備会を掌握し、その方向性を定めることが許されるのは米沢だけだった。にも関わらず彼は理念に基づいた活動であれば、スタッフの合議で決まる運営にほとんど口を差し挟まなかったことも、彼の声望を高めた。コミケットが現在に至るまで最低限のルールを守る限りにおいて開かれた場として存在するのは、米沢の定めた場のあり方を参加者が受け入れ、育てて来たからだと言えるだろう。彼は、名実共にコミックマーケットを体現する人物だったのだ。

コミケットスペシャル4の本部の風景

(コミケットスペシャル4の本部の風景)

 そんな彼が、この世を去ったのは2006 年10月1日。死因は肺ガン。53 歳の若すぎる死だった。本稿は、これまで語られて来なかった米沢の病気発覚から代表交代までの出来事を、関係者に取材してまとめたものである。コミックマーケットは大半が普通に働いていたり学生をしていたりする「一般人」のボランティアで構成されている。一部人名、情報等はぼかした形で書くことをご容赦願いたい。米沢のことは以後、米やんで、英子夫人はベルさんで書かせて頂く。これは米澤家について書かざるを得ない部分が多く、混乱をさけるためである。

発端から入院まで

 米やんに病の兆候が見つかったのは、2006 年2月に行われた有限会社コミケットの健康診断であった。レントゲンで肺に影が見つかったのだ。当然、本人もそのことを聞いた。しかし慌てた様子もなく相変わらずヘビースモーカーで、予定されていたパプアニューギニアへの家族旅行にも行っている。ひとつには、同時に妻であるベルさんにも腫瘍が見つかり、4月に手術が行われたこともあったのかも知れない。幸いにしてベルさんの予後は良好だったが、病院嫌いの気がある米やんは言を左右にして再検査に行こうとしなかった。業を煮やしたベルさんが、自分の検査に付いてきて、と半ば騙すようにして病院に連れて行き、やっと5月になって精密検査を受けることになる。これ以前に、コミックマーケット救護室の医師であり米やんの旧知の仲でもあった石上医師と稲葉医師は、ベルさんから肺の影について相談を受けている。石上医師と稲葉医師は、米やんにとってコミックマーケットと関わりなく友人と言える数少ない準備会スタッフでもあり、ベルさんも信頼して相談していた。彼らも至急の精密検査を再三勧めていたという。再検査の結果、肺ガンであることが発覚。告知を受けたのは、妻であるベルさんだった。少なくとも、この段階では米やんにも病名は伏せられていたようだ。以後、救護室の医師達は米澤家のサポートを始めることになる。
 周囲の心配をよそに、彼は6月3日からスタッフレクリエーションで山中湖へ一泊のバスツアーに行き、6月17 日に行われた拡大準備集会にも出席している。ベルさんはそこで石上医師たちに検査結果を伝えている。その段階で数値的には相当厳しく、既にかなりの痛みがあったはずだ、と医師達は証言しているのだが、集会に参加したスタッフは誰も気づかなかった。少し後のことになるが、7月8日には、入院中にも関わらず外出許可を取って松島で行われた日本SF 大会にも泊まりがけで参加しているのだが、そこでも米やんは見事に隠しきっている。

2005年の日本SF大会にて


(2005年の日本SF大会にて)

 医師以外の準備会のスタッフで最初に米やんのガンを知らされたのは、7月1日から新潟で開催された日本マンガ学会第6回大会に一緒に参加していた安田と横川の二人であった。現共同代表の一角を務める安田は、この時点で(有)コミケットの社員および準備会副代表、更に企業ブースの責任者として準備会の中核を担う立場だった。第二回コミケットから参加している最古参であり、若き日のベルさんが三顧の礼を持って準備会に誘った仲間である。準備会内でも大きな変革であった企業ブースの立ち上げという困難なプロジェクトを成功に導き、米やんの信頼が最も厚い女性だった。もうひとりの横川俊もまた古参スタッフのひとりであり、コミケットプレスと当日のアナウンスを統括する放送部の責任者でもある。プライベートでも米澤家と親しく、子ども達の面倒もよく見ていた横川は家族同様の付き合いがあった。ベルさんからの第一報を聞き、二人は絶句したという。旅行前にガンの告知を受けていたはずの米やんはさばさばしており、マンガ学会大会後の飲み会も三次会まで付き合っていたというから感心するほかない。
 現在の共同代表である筆谷と市川も、ほぼ同時に連絡を受けていたようだ。二人の準備会でのポジションは安田と同じく副代表である。米やんが50 歳になった年に行われた30 周年記念24 耐(!?)コミケットスペシャル4において、米やんが大代表、筆谷と市川が代表を務めるなど、米やんの信頼する仲間だ。筆谷は学生時代からスタッフを始めて、コミケカタログの編集長を務めながら、コミケット中興の祖であり米やんと同じく肺ガンで2004 年に亡くなった岩田次夫が進めた準備会へのパソコン導入などによる事務作業のシステム化をサポートするなど多くの貢献をした。マンガ好きが高じてプロの編集者となり、カタログ編集長をとっくに退いている今でもマンガレポートの選定については他人に譲らないこだわりを持つ人物だ。米やんの直轄部隊である総本部の中核スタッフであったが、既に結婚して子どももおり、編集者としても大活躍と多忙を極めていて、スタッフとしては一線を引きつつあった。一方の市川は、コミケットが晴海から有明に移る際に館内担当というスタッフの半分が所属する巨大部署の立ち上げと初代総統括を務め、ビッグサイトに移ってからのスタッフ実務を中心になって支えてきた人物である。若手スタッフの信望も厚く、当時はCOMIC ☆1も立ち上げて精力的な活動を行っていたが、若さ故の暴走も目立ち、この時点では他の副代表に育てられるポジションであったと言えるだろう。米やんとは映画や古書収集を趣味とする同好の士でもあり、公私を問わず親しくしていた。二人はそれぞれに、ベルさんから電話を貰って話を聞いた。その段階では、ガンだということと、急に何かが起こる訳ではないという説明だったようだ。それでも、足下が崩れるような衝撃を受けたと二人は語っている。
 マンガ学会から戻った直後に、米やんと市川、筆谷はベルさんも交えて会合を持っている。この会合に行く直前、市川と筆谷は二人だけで話をしている。この時の会話を、二人は鮮明に覚えていた。市川は「米やんに何かあったら、筆谷さんは会社を辞められますか。僕は辞める覚悟あります」といい、筆谷は「俺は辞められない。だけど、その時が来たら支える」と答えたという。
 市川は、以前米やんに自分が60 歳か65 歳で辞めるからそれまでに後継者を育てないと、と言われたことがあった。コミケスタッフ最長老の明石にその話をしたところ、「次はキミがやるんでしょ?」と当然のように言われたそうだ。それ以来、彼の胸にはある種の覚悟が芽生えていたのだ。しかしこの日の話はそれほど重大な決断の場ではなく、「治療が必要なので当日は頑張るとしても、スタッフ集会等に出られないかも知れないので、その時はよろしく」と米やんは述べ、心配しながらも、二人は留守を引き受けた。
 しかし、米やんの体はこの頃には相当辛かったはずだ。7月に入って、入院して抗がん剤治療を行うことになったのだが、その準備をしていたベルさんと長女の瞳美は、米やんが大量のマッサージ店のカードを隠していたのを見つけている。肺ガンから来る腰痛が酷く、家族にすら隠して何件もマッサージ店を変えて治療を試みていたのだろう。この時期になると、さすが米やんが代表を務める(有)コミケットの社員はほぼ状況を知っていたが、準備会に対してはぎっくり腰ということになっていた。
 準備会はボランティアによって運営されているため、求心力の中心である米やんが倒れた時にどういう影響があるか判らない。だがそれ以上に、米やんは病気のことを他人に知られることを極端に嫌がっていたようだ。「僕は治るから大丈夫」と、いつも言っていたという。
 入院してからも執筆業の仕事は続けており、医師から禁止されても隠れて煙草も吸っていたようだ。幸いにして食事制限がなかったこともあり、頻繁に家族で外食もしていた。ベルさんと長女を中心に、家族に囲まれての入院生活が始まった。患者としての米やんは、あまり優等生とはいえなかったようだが、まったく弱音を吐くことなく辛い抗がん剤の治療を受けていた。
 コミケット70 直前の集会にも病院から参加し、飲み会にも顔を出している。
 この頃の米やんと、古書仲間でもある市川が電話で何度か話をしたそうだが、内容もトーンもいつも通りで、実際に治るのではないかと思うような受け答えだったようだ。いつも一緒に居たベルさんも、希望的観測を持って看護にあたっていた。現実には、入院後手術する予定が病状悪化のために先送りになり、7月中には脊髄への転移が見つかっている。状況は、次第に厳しさを増していた。

病魔との戦い

 コミケも近づく8月初頭、見舞いを嫌がる米やんをベルさんたちが説得して、安田、筆谷、市川、横川、そしてコミケット広報担当にしてサークル配置の総責任者を務める里見たちが見舞いに訪れている。この時は、痩せてはいたもののまだ元気そうに見えたという。見舞いに行った米やんはいつもの通りで、「僕が帰ってくるまで、迷惑かけるけどよろしくね」程度の対応だった。彼は、戻ってくるつもりだったのだから。
 入院から一ヶ月ほどが経過し、米やんを支える家族も大変だったようだ。入院を知られることをとにかく嫌がる米やんに対し、準備会には伏せるとしても友達や関係者には知らせた方がいいと言っても説得に応じないかたくなさを見せ、周囲への説明に苦労していた。米やんの母親も同じ肺ガンで闘病しておられたこともあり、熊本の実家との連絡も非常に気を遣う状況だった。妻であるベルさんと、大学生で準備会スタッフとしても活動していた長女の瞳美が代わる代わる泊まり込んで米やんの世話をしていた。米やんは看護師も誰もいない時を見計らって、瞳美に背中や腰をマッサージしてもらうように頼んでいたという。生活の中心にコミケがあり、また執筆や講演で全国を駆け回っていた米やんにとっては、初めての家族とゆっくり過ごす時間だったのかも知れない。
 8月11 日からのコミケット70、米やんはカツラを用意して、さらに帽子を被って臨んだ。抗がん剤の影響で髪の毛は抜け落ちていた。病院を抜け出して、わざわざ自分でカツラを買ってきたというから、本人はかなり気にしていたのだろう。その甲斐あってか、ほとんどの人に気づかれないままに三日間の会期を過ごした。本人は「意外と気づかれないもんだね」とがっかりしたような感想をベルさんたちに漏らしたそうだ。

コミケット70 最後の反省会

(コミケット70 最後の反省会)

 そんな微笑ましいエピソードはあったものの、C 70 は病状を知る少数のスタッフに取っては緊迫を極める三日間だったようだ。医師と看護師で構成される救護室では、一部のスタッフに米やんの病状説明があり、緊急時の対応を詳細に取り決めていた。会期中も会期後も、ここで病状を聞いたスタッフからまったく情報が漏れなかったことは賞賛に値すると思う。同じ控え室に常駐していた筆谷は、米やんがすぐに喫煙に行ってしまうのを半ば怒りながらも、毎日の反省会では米やんに椅子を用意するなどの細かい配慮を行い、市川はいつも以上に場を盛り上げようと声を張り上げた。ベルさんは、米やんから片時も離れなかった。  中でも安田は、本来米やんやベルさんと共に行うはずの多くの当日の運営を、彼女を中心に取り仕切ることになり獅子奮迅の働きを見せていた。里見を始めとした事情を知るスタッフを中心にいつも以上に米やんに負担をかけないように運営が行われた。
 その甲斐あって、無事に三日間を終えて打ち上げまで参加した米やんは翌日、東京湾で起こった架線事故による大停電の中、病院に戻った。多くのスタッフにとって、これが生前の米やんと会った最後の機会となる。筆者もまた、この打ち上げで最後に米やんと話している。腰が痛いから座っていられない、という話をして、文筆業の常ですよね、と笑っていた覚えがある。医師達から聞くに、本来は耐えがたいほど痛かったはずなのだ。彼は、おくびにも出さず笑っていた。凄い精神力だと思う。だが、米やんの笑顔とは裏腹に、病魔は確実に彼の体を蝕んでいた。
 コミケの三日間の様子と、ベルさんたちから聞く話から、米やんの病状が深刻であることに、市川たちは気づき始めていた。毎日の状況を聞く立場にある里見から連絡を受けて、市川は外出中の米やんを訪ねた。新宿のルノアールで編集者との打ち合わせを終えた米やんとベルさんに、市川は正面切ってコミケットの今後をどうするつもりなのか想いをぶつけたという。しかし、この時も米やんはのらりくらりと「治って戻るから大丈夫」と繰り返し、いつものようにマンガと古本の話をして、みんなで本屋に行き、中華料理店で夕飯まで食べてから病院に戻った。市川は、歯がゆい思いを抱えながらも、それ以上米やんに詰め寄ることは出来なかった。
 直後、米やんは病を押して熊本に二泊三日の帰省をしている。危篤状態であった米やんの母を見舞うためだ。熊本でも、ほとんど辛い顔をせず、ベルさんたちが気遣っても、煙草を吸いお酒も飲んだ。本人の強い希望で、ガンのことは最後まで伏せたまま東京に戻った米やんだったが、帰京した直後、コミケと帰省を頑張りすぎたためか容態が急速に悪化する。本来は帰宅して彼のライフワークである戦後エロマンガ史のラストを執筆するはずであったが、その予定をキャンセルして治療にあたらざるを得なかった。この時期からは、長女の瞳美が原稿の口述筆記をするようになる。家族には我が儘な米やんと口喧嘩しながらの作業は、二人にとって貴重な時間となった。
 ベルさんは安田や横川からの強い勧めもあり、万一に備えて米澤家やコミケットの相続関係の話を始めていた。コミケットには、運営の理念を理解してくれる顧問弁護士や税理士がおり、彼らと共にコミケットを存続させるための計画が練られ始めていた。まだ準備会スタッフの大半には伏せられたままだった。ベルさんはいう。「でも、きっと米やんは大丈夫だと思っていた」と。コミケットの歴史は、無理を通して道理を引っ込めてきた歴史だ。 マンガが好きで、同人誌が好きなだけで始まった小さな『場』がこれほど大きくなるまでの、たくさんの困難を乗り越えて来た米やんだから、ベルさんは、まだ彼を、奇跡を信じていた。次第に痩せていく背中を支えながら、米やんが次のコミケでも一緒に仲間たちと笑いあえると信じたかったのだ。

仲間たちの葛藤

 開催終了直後でスタッフとしての活動が一段落する時期でもあり、準備会スタッフは米やんの急速な病状悪化を知らなかった。唯一、知る立場にあったのは米澤家をサポートしていた救護室の医師たちだけである。救護室総統括である石上医師は、最も早くから状況を知り、そして病状の緊迫を理解してた。このままでは、コミケット存亡の危機になりかねない、と。
 コミケットはボランティア組織であるだけに、ルール化された継承システムがなかった。初代から二代目への禅譲も、前任者の指名によって行われている。後継指名なく米やんがいなくなるようなことがあれば、その後の混乱は計り知れない。石上医師は、筆谷とごく少数の仲間に、米やんの病状の深刻さと今後の運営への危惧を警告するメールを発する。
 時に8月28 日のことであった。急報に接し、劇的に反応したのが筆谷である。
 筆谷は前述のように既に運営の第一線からは引いているに近い状況だった。だが誰よりもマンガと同人誌を愛する彼は、コミケを守るために動き始める。石上医師に連絡して状況を確認し、主要スタッフの何人かにメールを転送し、最も身近で米澤家と対応していた横川に電話をかけた。「この状況を知っているのか」と。
 尋ねられた横川は、安田と共に四国を旅行中だった。つまり、そのくらい「まだ大丈夫だと思っていた」のである。どれだけ米やんは辛い顔を見せずに頑張っていたのかと驚きを禁じ得ない。この日、市川は本業の都合でメールを見ていないが、準備会の主要スタッフが一気に状況を理解する日になった。筆谷は、安田や横川と対応を相談する。
 四国からとんぼ返りした安田と横川は、米やんの病室に急行した。そこでは、ベルさんが米やんと談笑していた。血相を変えた二人に驚いた米やんは、ベルさんに用事を頼んで三人で話をすることを選んだようだ。口火を切ったのは横川だった。内容は「万一のために、次の代表を決めて欲しい。自分は、安田以外にいないと思う」そう断言した。嫌われ役を引き受ける覚悟が、横川にはあったのだ。二人で病室まで来たにも関わらず事前に何の相談もされなかった安田は絶句した。一気にやせ細っていた米やんの答えは「カヤさん(安田の愛称)に、これ以上、大変なこと頼めないよ」だった。事実、安田は準備会の中でも風当たりの強かった企業ブースを成立させるため奮戦し、(有)コミケットの仕事も中心になって回している。この上、準備会全体の運営まで任せるのは忍びなかったのだろう。「でも、ベルにだって無理でしょう。このままだと……」と、横川は言う。社長が米やんである以上、準備なしに相続が発生すると会社は妻であるベルさんが代表となる。今までは米やんが兼務していた準備会代表もベルさんがやらねばならなくなるかも知れないのだ。「判ってる」と、米やんは言った。
 米やんは、ベルさんのことを「お姉さん」と呼んでいた。機嫌が悪いと「オバサン」なんていうこともあったが、二人はいつも一緒で、ところ構わず夫婦漫才を繰り広げる。社交的な二人は、準備会の輪の中心だった。米やんは、誰から見てもベルさんが大好きで、想い合っている夫婦だった。

米澤家のスナップ 米やん自室にて

(米澤家のスナップ 米やん自室にて)

 それでも、ベルさんに社長と代表を頼むのは無理があった。三人の子どもに恵まれた米やんだが、二人の四人目の子どもが、コミケットなのだとすら言える。だからこそ、米やんはベルさんに、三人の子ども以上の責任を残していくことは出来なかったに違いない。
 事態は動き始めていた。9月2日に主要なスタッフが集められ、米やんの肉声テープが流された。 趣旨は、自分がガンであること、コミケがなくならないように対処すること、病気が治るまで副代表三人に拡大集会などの運営を任せること、などであった。弱々しくはあったが、講演慣れした闊達な口調は健在とは言わないまでも十分に米やんらしいものだった。その日の午後、初めて数名の古参スタッフが代表して見舞いに訪れ、病室の米やんに面会している。病床にある米やんの顔を見たスタッフは、号泣して何も話せなくなったと述懐している。夏コミから僅か半月で、それだけ容貌が変わっていたのだ。それでも、この段階で米やんのことを知っていた準備会のスタッフは、まだごく一部に限られていた。周囲に秘される形で、米やんの病状がどうなってもコミケが存続できるようにするための準備が始まった。しかし、それでも「いつか帰ってくる」と信じての準備だった。
 だが、この頃には、ベルさんは余命一ヶ月の宣告を受け、安田や医師たちに相談している。米やんもそろそろ自分の寿命について悟っていたのかも知れない。日帰りで自宅に戻った米やんは、ちょっとしたことで感情的になり「そんなことで大丈夫なのか! 僕は死んじゃうんだぞ!」と口走ったことがあるという。それを聞いた瞳美は「父さんは気づいているんだ」と思ったそうだ。しかし、そのことをそれ以上語ることなく、なるべく普段通りに過ごしていた。
 辛いことは続く。9月10 日、米やん同様に闘病中だった米やんの母が亡くなる。米やんには熊本の実家で行われる葬儀に出る体力はなく、子どもたちと横川たちが代理で出席した。この時にも、まだ米やんは自分の病状をすべて伝えないように子ども達に言い含めていた。
 本人も、母親の死に衝撃を受けたのか、その後一気に病は進行した。会社の相談もあり、病室を尋ねることの多かった安田は、そのたびに筆谷と市川に米やんの状況を報告していた。ある日、仕事が終わって居酒屋で合流した安田から、市川たちは衝撃的な話を聞く。「今日ね、米やん……あたしの顔、判らなかった」 米やんは、スタッフが1,000 人を越えるまではすべてのスタッフの顔と名前が一致していた程の記憶力の持ち主だった。みんな名前を覚えてもらい、会話をしたことがあるから、スタッフ一人一人が自分と米やんの物語を持っている。それが彼のカリスマの一部だった。そんな米やんが、最も信頼する腹心の顔を忘れていたのだ。見ていられないほど憔悴し涙を流す安田にかける言葉もなく、筆谷も市川もただ、共に嘆くしかなかったのだ。

準備会の一番長い日

 病状は、予断を許さないものになっていた。ベルさんと瞳美は、毎晩交代で病院に泊まっている状況になっていた。瞳美は、夜中にも何度も米やんの背中をさすっていたそうだ。最愛の妻であるベルさんにとって、日々弱っていく米やんの姿を見続けるのは辛いことであった。母親の葬儀等を終えた米やんの父が、米やんの看護に加わったことは幸いであったかも知れない。気分のいい時には、かなり話も出来たようだ。長男と次女もまた、看護を尽くしていた。
 家族のための貴重な時間だった。だけど、ベルさんは、コミケットのことも忘れなかった。
 それは、いつのことだったのか、ベルさんは覚えていないそうだが、ある、米やんの体調が比較的いい時だ。「コミケのこと、どうする?」と、ベルさんは聞いた。今後の事を決めないままで、米やんがいなくなったら……想像したくもないことを、ベルさんは、聞かなければならなかった。「……ね、お姉さん、頼みがあるんだけど」。何でもないことのように、米やんは、ベルさんに言った。瞳美も、その話を聞いていた。その時は、近づいていた。
 9月22 日。米やんが入院している病院にすぐそばにある喫茶店に、安田、筆谷、市川が集まっていた。ベルさんに頼まれて、招集をかけたのは安田だ。呼び出しの理由は、既にベルさんから安田に伝わっていた。「三人で、代表をして欲しい」それが、米やんの決断だった。準備会と(有)コミケットにおいて経営や企業の難しい案件に対処している安田、マンガを愛し理念を追っている筆谷、現場で参加者と向き合っている市川の三人が力を合わせれば、準備会を守っていけると考えたのだろう。しかし、筆谷も市川も、まだ半信半疑だった。彼らにとっても、米やんの存在は大きいのだ。見舞いを嫌う米やんの性格もあり、9月に入ってから、二人は米やんに会っていなかった。

三人で向かった病室の前で、誰から入るかで真剣に揉め、扉の前でぐるぐる回った。そのくらい、米やんの状態を見るのが怖かったのだ。結局、安田を先頭に病室に入った。
 米やんは、ベッドに横たわったまま、三人を迎えた。ベルさんと瞳美が、その傍らに立っていた。病にやつれた米やんの姿。三人は彼を見つめる。面会は、ほんの僅かな時間だった。
 「コミケのこと、頼むね」たった、ひとこと。三人は万感の思いを込めて、頷くしかなかった。何か少し、話したかも知れない、と筆谷は言う。でも、内容は覚えていない、と。市川も、何か言える雰囲気じゃなかった、と。安田は、米やんが三人で代表をするという案を出してくれたことを感謝していた。一番、コミケを続けられる可能性の高い選択に思えたから。(有)コミケットの社長は、やはりベルさんが継ぐことになった。本人もとても不安そうだったが、その後、実際に米やんの没後7年にわたって社長を務め、ベルさんはコミケを守ることになる。
 神聖な時間が過ぎ、三人が部屋を出て、室内はベルさんと瞳美だけになった。
 その時、米やんは呟いた。
 「悔しいな。ここで終わるのか」
 米やんは泣いていた。声を殺して、涙を流した。
 わずか数十サークルが集まり同人誌を頒布していた小さな『場』を、一開催当たり55 万人以上が集まる『場』に変えた男の、それが惜別の辞だった。

 禅譲を受けて、準備会は慌ただしく動いた。新体制の発足に向けて合議が重ねられた。いくつもの約束が生まれ、急速に形が整っていく。三人の共同代表は、米やんの意志を継ぐことを確認し、米やんの肉声テープを持って交代が発表されることになった。
 共同代表に席を譲ってから、米やんは意識不明になることも多くなっていた。夢うつつの時を過ごす米やんに、家族はずっと寄り添っていた。準備会スタッフも見舞いに行きたい気持ちを堪えて、家族の時を大切にした。
 9月30 日に、コミケット71 に向けて最初のスタッフ集会が行われ、その席上で米やんの肺ガン闘病と、代表の交代が発表された。この日、初めて米やんの病気を知ったスタッフが大半だったが、会場は米やんの完治を祈る声で満ち、共同代表を支えてコミケを続けていく方針は混乱なく受け入れられた。病院から駆けつけたベルさんも壇上に上がり、コミケの継続を誓った。
 スタッフ集会の後は、恒例の宴会があり普段ならその中心に米やんがいた。初めての米やんのいない打ち上げには、ベルさんの姿もなかった。いつもなら宴席の中心にいるベルさんだが、その日は、何故かまっすぐに病院に戻ったのだ。
 その夜は、家族全員が病院に泊まっていた。
 病室には瞳美が一緒に泊まり、別室にはベルさんや長男、次女もいた。
 既に声も出なかった米やんは、夜中に何度も水を欲しがり、瞳美はそのたびに水差しを用意した。
 巡回に来た医師が、家族を呼ぶように言ったのは夜半過ぎのことだった。
 最愛の家族四人に看取られて、10 月1日午前4時40 分。米沢嘉博、逝去。
 代表交代発表直後の死だった。苦しむことなく、安らかな眠りだったという。
 三人の後継者とベルさんに後を託し、安心して天に召されたのだと、筆者は信じている。
 米やんの遺体は大好きだった古書とマンガが溢れる自宅に戻され、そこで数日の弔問を受けた。昔からの仲間とスタッフ、仕事関係者がひっきりなしにお別れに訪れ、生前と同じく米やんの周りには常に人が溢れていた。
 10 月6日に麻布山善福寺で営まれた通夜、10月7日に行われた葬儀には数千人が弔問に訪れ、コミケ同様に整然と列をなして米やんを見送った。

葬儀の様子

 葬儀の終わりに、米やんから共同代表と共にコミケを守る役割を受け継いだベルさんが、お別れの言葉を述べた。その中で、彼女が叫んだ「お兄さん! どうして死んじゃったんだよ!」という言葉が、集まったすべての仲間たちの気持ちを代弁した。
 仲間たちが作った替え歌が響く中、米やんを乗せた車が式場を出て行く。
 誰かが叫んだ。「米やん!」、みんなの声が続く。車を追って走り出す。みんな、泣いていた。
 車から振り返ったベルさんの、安田の、筆谷の、市川の目にも涙が溢れていた。

 この日、本当の意味で代表が代わった。
 そして、今日もコミケは続いている。それが、米やんの選択が正しかった証明であり、ベルさんが、共同代表が約束を果たし続けている証なのだ。

松智洋

コミケット

プロフィール

米沢 嘉博

米沢 嘉博 よねざわ よしひろ(1953 ~ 2006)
(マンガ評論家・コミックマーケット準備会前代表)

 1953 年3月21 日熊本県熊本市生まれ。明治大学在学中より批評集団「迷宮」の活動に参加。ライター・編集などを経て1980 年より「戦後マンガ史三部作」を刊行、以後マンガ評論を中心に大衆文化関連の評論を行う。日本マンガ学会の設立にも参画し、理事を務めた。『別冊太陽・発禁本』が1999 年第21 回日本出版学会学会賞を受賞、『藤子不二雄論 F とA の方程式』で2002 年第26 回日本児童文学学会賞を受賞。2007 年星雲賞特別賞を受賞。  1975 年第1 回コミックマーケット創立メンバーの一人。1980 年から2006 年までコミックマーケット準備会代表を務め、現在の同人誌即売会コミックマーケットの理念を形作った。

 2006 年10 月1日肺癌にて死去。享年53。

主な著書
 『戦後少女マンガ史』(新評社,1980 年)
 『戦後SFマンガ史』(新評社,1980 年)
 『戦後ギャグマンガ史』(新評社,1981 年)
 『アメリカB級グッズ道』(晶文社,1999 年)
 『藤子不二雄論 F とA の方程式』(河出書房新社,2002 年)
 『戦後野球マンガ史』(平凡社,2002 年)
 『マンガで読む「涙」の構造』(NHK 出版,2004 年)
 『手塚治虫マンガ論』(河出書房新社,2007 年)

 年 譜  
1953( 0歳) 熊本に生を受ける。
1967(14 歳) 中学3 年生のこの年、「アズ漫画研究会」に入会
1969(16 歳) 第8 回SF 大会KYUCON にスタッフとして参加。
1972(19 歳) 明治大学入学ともに、青雲の志を抱いて上京。明治大学SF 研究会に入会。マンガ同人誌も制作。
1975(22 歳) 批評集団「迷宮」を結成。迷宮メンバーによりマンガ批評同人誌『漫画新批評大系』を刊行。この年、日本初のマンガ同人誌即売会「コミックマーケット」を開催。
1977(24 歳) 米沢主宰の同人誌『グロッタ』創刊。
1980(27 歳) 初の著書『戦後少女マンガ史』上梓。戦後マンガ史三部作の第二作『戦後SF マンガ史』も同年発刊。
1981(28 歳) 戦後マンガ史三部作の第三作『戦後ギャグマンガ史』発刊。マンガ評論家としての基盤を確立する。
1985(32 歳) 株式会社コミケット社長に就任。
1987(34 歳) この頃より『現代用語の基礎知識』に解説を執筆。
1990(37 歳)『別冊太陽 子供の昭和史昭和35 年~ 48 年』のうちの「子供雑誌の六〇年代」の構成・解説を担当。これをきっかけに別冊太陽の監修・構成を多く手がけることになる。
1992(39 歳) 日本ジャーナリスト専門学院の講師となる。
1996(43 歳) 有限会社コミケット設立。
1997(44 歳) 『QJマンガ選書』の監修。同シリーズの刊行を始める。
「手塚治虫文化賞」の選考委員となる(2002年まで)。
1999(46 歳) 第21 回日本出版学会賞受賞。
2000(47 歳) 「緊急シンポジウム 表現と著作権を考える」を開催。
2001(48 歳) 日本マンガ学会発足、理事就任。
2002(49 歳) 第26 回日本児童文学学会学会賞受賞。
2004(51 歳) ヴェネチア・ビエンナーレ第9 回国際建築展日本展に、コミックマーケット準備会が出展。
2005(52 歳) 第44 回日本SF 大会HAMACON2 にて柴野拓美賞受賞。
のらくろ漫画賞審査員に就任。
2006(53 歳) 10 月逝去。
2007第65 回世界SF 大会/第46 回日本SF 大会Nippon 2007 にて星雲賞特別賞受賞。
2010 第14 回手塚治虫文化賞特別賞受賞
 
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